写真行脚 東京の玄関(その三)

というわけで、『婦人画報』誌1927(昭和2)年2月号掲載の「写真行脚 東京の玄関(その三)」をテキストに起こしてみた。写真は写真部の島村生氏、著者は「XYZ」氏。何者なんだー。
あまりにも面白いのでつい全文を写してしまったけれど、適宜私の感想が挟んであるので、これもギリギリ「引用」の範疇と許してほしい。それと、かなりいいかげんにひょひょいと現代仮名・現代漢字に直しているので、細かいことは気にしないでほしい。元の記事は総ルビ、当て字の部分のみカッコ書きで入れてます。

東京の玄関だけは「頼もう」と言わずに入って来ていい。もっとも切符を渡したうえでのことだが。さてそういう人が、今汽車から降りるところを写したいと思って出かけたが、季節はずれか、なにか知らぬが、いつからなこれはと思う人が降りて来ない。みんな東京へ帰って来たというような人ばかりだ。赤い毛布(まふ)に黒い洋傘(こうもり)、あたりうろうろというような人は、当節はやらないと見える。さもあろう、鎮守のお祭りのお店にだって、都会風な小物が並ぶのだもの。
一時間ぐらいむだにしたので、いっそ駅の天井でも写しとろうかというわけ。上を見たらきりがないから、「笠きて暮せ おのが心に」と昔の道歌にうたってあるが、東京駅では上を見ている方が無難だ。下には毛皮に顔を埋めた婦人や、素晴らしいお召を着た婦人が多い。下を見ていると虚栄の蟲が、腹のなかでうごめく。然るが故に、この天井を写したことも、さほど無意味ではあるまいて。いわゆる世人に警告するという意味ですからね。

「東京の玄関」というテーマだから、いかにもお上りさん風の人を撮りたい、と待っていたが、1時間待ってもソレっぽい人が出てこない。だから天井を撮ってきました、という話。そして実際、天井の写真が載っている。
苦し紛れで撮ったといいつつ、そこで屁理屈をこねて「さほど無意味ではあるまいて。いわゆる世人に警告するという意味ですからね」と言うあたり、なかなかいい性格をしています。

さて、外に出て降車口の方に行くと、自動車が、えい! 失礼な、お尻を向けて並んでいる。だが、写してみると、たいしたものだ。新東京八景の一ぐらいにはなろう。

この写真が記事冒頭に掲げられている。赤煉瓦の駅舎を背景にして、その駅前に22、23台もの自動車がこちら側に尻を向けて並んでいる様子が撮られていて、まさに記事どおりなのだが……あれ? 「降車口の方に行くと」というけど、降車口だって駅舎に付いてるんだから、そこから見たら車は頭を向けていたのでは?(笑)

次に目にうつるのは、三越の自動車を待つ人々である。時は歳晩、いづれもお買い物というわけであろう。みんな、ふところの暖かい御様子。それにしても、一つ感心したことはこの人たちお行儀よく並んでいる点である。ふところがあたたかいぐらいの人々だから、衣食足りて礼節を知るというわけかしらんと考えた。けれど、もう一度考えなおして、要するにこの三越の自動車は賃金がロハであるから、遠慮をしているんだと決定した。なあんだ! と思った。

駅前から日本橋三越の無料送迎バスが運転していた、と。当時は「運賃がタダだから」という遠慮でもないと整然と並んだりはしなかった? これも写真が掲載、それなりに大きい車ですが定員はおそらく20人程度でしょう。

次にまた、目にうつるのは中央郵便局である。東京駅の右手寄りすぐ前にあって、見すぼらしい姿を曝すこと数年。いつ本建築になるのか、噂さえ聞かない。東京の玄関に控えて、あまりに汚ない。あたかも玄関に入って行って、見すぼらしいお取次の爺さんに出逢った感じである。十七八のきれいなお取次が、にこやかに迎えてくれるのと大分ちがいがある。

モダニズム建築の傑作と言われた中央郵便局を知っていると、見すぼらしい仮庁舎だという記述が新鮮。あれは1933年完成だそうで、1927年の時点では「いつ本建築になるのか、噂さえ聞かない」だったんですね。

さあ、方向転換をして、有名な丸ビルを見る。あまり紹介され過ぎているから、写すべきものも見あたらぬ。「困ったなあ!」と記者、「困ったなあ!」と写真技師。しかし、幸いなるかな、右手の陳列窓の一つに、商品が並んでいなくて、バケツが一つ置いてある。水が漏って来たからである。どこかのパイプでもいたんで水が漏れるのであろうが、読者諸姉(みなさん)よ! 驚き入るではありませんか! ともかく、上の写真は、丸ビル陳列窓の醜態です。白い布でもかけとけばわれわれのめにもとまらないであろうに。

というわけで、当時の読者には見慣れ過ぎたであろう丸ビルの写真ではなく、片隅にバケツが置かれたショーウィンドウの写真がドンと掲載されています。驚き入るではありませんか! ……っていいのかこれ? 色んな意味でおかしい。

次に、もう一つ丸ビル横の、自転車有料保管所をご覧に入れましょう。自転車が子供のおもちゃになっている英米あたりに比べて、この自転車時代の盛観を御覧下さい。アメリカ式の新建築の下に、こういう保管所があって、それに乗って来た人々が、丸ビルのなかの事務所に用足しをして……すべてが混沌である。

と、自転車保管所の写真が載っているのですが、撮りにくい位置だったのか5、6台しか写っておらず、盛観というほどではない。「アメリカ式の新建築」と自転車という取り合わせに「すべてが混沌である」と見るあたり、当時の読者は共感したのか、それとも当時から大仰な表現だった?

だが、東京の玄関から奥の間に通じる長廊下であるところの、御幸道路はたいそう立派である。これは、いかにわれわれ口がわるくとも、なに一つ言えたものじゃない。坦々たる大道である。雨あがりに草履で歩ける道である。畏くも、九重の雲深いところの方々が、お通りになるためにできた道である。
見よ! なんという美しさ。この道路から遥か宮城を眺めて、美しいと思わぬ奴は、美の不具者である。形のよい街燈、車道を左右に分ける小高い石囲いの芝生の地帯。そして、松、三層白壁の富士見やぐら。技師の苦心になる写真で、御覧いただきたい。

ずっと斜に構えた調子だったのに、宮城(皇居)の周りのこととなると、なんだかお固い感じに。しかしそこにも「技師の苦心になる写真」と楽屋話を差し込むことを忘れない。その写真は、中央分離帯に「形のよい街燈」が並んでいる向こうに、白壁のやぐらを望んだもの。車が一台いい位置に走っていて、よほどタイミングを計ったとみえます。この時代の道路は、平坦で「雨あがりに草履で歩ける」ことが最上級の褒め言葉なんですね。

さて、宮城前の広場へ行けば、玉川砂利を敷きつめたうえで、草とりのお婆さんたちが並んで草をとっている。草の枯れる冬、しかも歳晩だというのだもの、どこに草があるかと思われるくらいだが、こうして草をとっているのだから、あたりの清らさは実にたいしたものである。
同時に、このお婆さんたちの姿が、なんとなく宗教画を見るようである。しめやかな気分が、われわれの胸にすうっと起こる。
聖上は御不例におわします。
われわれは、ここで写真行脚を切りあげて二重橋の前でお祈りを籠めた。

と、お婆さんたちが玉砂利の広場にかがみ込んで草取りをしている様子の写真が一枚。いやまぁ、宗教画を見るようだといわれりゃそんな気もしますが、どちらかというと潮干狩りのように見える。それにしても皇居が主題ってところにこういう写真を大きく載せるセンスがすごいです。
昭和2年2月号で「聖上は御不例におわします」ということは、この記事を書いた時点では、大正天皇は病に伏せていたけれどまだ生きていたんですね。これまた微妙なタイミングでした。