「神のみぞ知るセカイ」#7

今さらですがかのん編の感想。

伊藤伸平が連載デビュー以前に描いていた、百目鬼(どめき)という名の伝説のプロデューサーが新人アイドルをプロデュースするという内容の読み切り漫画で、「◯◯はいきなりやったじゃないか、武道館」「あれになっちゃ困るんですよ!!」という会話があったのだが、それが誰だか思い出せない。セイントフォーか少女隊あたりなんだけど。私は今も昔もアイドルには詳しくないので、ぼんやりと「何の説明も無しでひょいと言及されるほど……それも「あれになっちゃ困る」の一言だけで具体的に何がどうとは語られないほど、伝説的に不入りだったのかな?」などと思っていた。(改めて調べたところ岩井小百合だった模様)

そんなタイトルさえ覚えてないマンガの、どーでもいい会話を連想したのだ。シトロンのステージは引退コンサートが一瞬映っただけだが、それはかのんにとって恐怖のイメージなのか、それとも単に「かつては仲間がいた」ことの記憶なのか? おそらくは前者のほうが強く、だから鏡の中のかのんの「今日失敗したら終わりだね」という台詞が現実味をもってかのんに突き刺さるし、それだけに三人で夢見ていた「なるりん制圧!!」は、まさにかのんの悲願ってことになる。

「再びシトロンの理想を掲げるために、ソロコンサート成就のために。
 なるりんよ!  私は帰ってきた!! 」
(安全なアトミックバズーカを使用しています)

ただ、あまり悲惨な過去だと作品全体が沈鬱なムードになってしまうから、あえて多くは語らなかったのだろう。そこらへんのさじ加減がちょっと巧いと思った。(「機動戦士ガンダム0083」ネタはただ思いついただけで何も関係ありません)

総じていうと、アニメで追加されたシトロン絡みのエピソードは「巧いけれど未消化感も強い」くらいの感想になる。6話でわざわざ「元々、リーダーのライムって娘を売り出すためのグループだったんですよ。でもかのんちゃんのほうが人気が出ちゃって…」云々とエルシィの口から言わせたことに、もうちょっと意味があるかなと思ってたのだが…。

「目立たない・人に覚えてもらえない存在だったが、アイドルデビューを果たした。そして超有名人になったけれど、未だトラウマがぬぐえない」というのが、物語が始まった時点でのかのんの過去。これだけなら話はスムーズに流れる。

ところがアニメ版は、「アイドルデビュー」と「超有名人になった」の間に「本来なら目立ち過ぎてはいけない立ち位置だったのに、センターより目立ってしまった」という過去を追加してしまった(原作でも一応、単行本のオマケ4コマで語られている)。シトロン解散後、芸能界に残ってるのはかのん一人なのだから、「目立ち過ぎたことでライムを引退に追いやってしまった」というトラウマも抱えてないとおかしいだろう。「透明な自分」「目立ち過ぎる自分」、相反する二つのトラウマを抱えるかのんを桂馬はどう救うのか? なんて話になるかと思いきや……シトロンの過去はこれまたかのんの孤独を補強するエピソードに位置付けられてしまった。この未消化というか不整合というか、的の外し方は少々残念。

ただ、そこらへんに目をつむれば、アニメオリジナル要素は巧いこと機能していたと思う。なんといってもシトロンの残り二人からの花がいい。あの場面だけなら涙腺が刺激されるのだけど、そこで冷静になって「でも本人たちは来ないor楽屋まで入れないんだよな…」という距離に気付くと、残酷なものだなという思いも湧く。
……いや、多分そこまでの演出意図は無かったと思うけどね。花の裏側にそういう含みがあったなら、ラストでひとりシトロン時代の歌を歌うかのんがスゲェイヤな奴に見えてくるし(苦笑)。

「かのんよ、意地を通せ。
現に満席のファンがいるのだ。
行け、ぼくの屍を踏み越えて!!」
(安全なノイエジールを使用しています)

コンサートのシーンはやはり間延び感が強かった。「キャラソンを売る」という事情があるとはいえ、一曲少なくても良かったと思う。ここに時間をかけたためにキスから「自ら輝く星になったんだ」までが遠くなり、桂馬の心情の扱いが相対的に軽くなってしまった感がある。ここに時間をかけざるを得ないのであれば、桂馬に代わってかのんと結ばれたファンたち、観客席の描写に重点を置くべきではなかったか。

……うーむ、書き出すとどうも厳しいことばかりになるな。冒頭からどマイナーな漫画の話だったり、意味なくガンダムネタを折り込んだり、真面目なことを書けば批判基調だったりの感想だけど、概ね満足でしたよ?