「プリズナーNo.6」という娯楽作

オリジナル「プリズナーNo.6」は難解だのシュールだの哲学的だの、時として高尚とまでいわれているけど、物語の骨子は実に単純明快で、しかも毎回ご丁寧にその説明を繰り返していた。

No.6「ここはどこだ」
No.2「村だ」
No.6「何が欲しい」
No.2「情報だ」
No.6「どっちの味方なんだ」
No.2「いずれわかる。さあ早く情報を吐くんだ。情報だ。情報だ」
No.6「しゃべるものか」
No.2「どんな手段を講じてても、しゃべらせる」
No.6「名前を言え」
No.2「新しいNo.2だ」
No.6「No.1は誰だ」
No.2「You are No.6」
No.6「番号なんかで呼ぶな! 私は自由な人間だ」
No.2「フハハハハ!(哄笑)」

このオープニングで、
1.No.6は謎の「村」に軟禁されており、脱出を試みる 
2.No.6は何かの「情報」を知っており、No.2はそれを聞きだそうとする
という2つの基本と、
3.管理社会との対決
というテーマを毎回示している。数々の謎が散りばめられ、各回の肉付けはそれぞれバラエティに富むけれど、いずれもこの基本は外さない。視聴者もこの3点さえ押さえていれば、話が入り組んでいようが飛躍があろうが、ストーリーを見失わずに付いていけるのだ。

今川マジンガーの時に「イデオン」「エヴァンゲリオン」について書いたり(2009年7月15日付)、押井守の「うる星やつら」について「深読みがどうこうの前にただ見てて面白いモン作ってた」というコメントをいただいたり(2010年5月15日付)したが、エンタテイメントのなかで「複雑」「難解」「哲学的」と評価される作品の多くは、一方で娯楽としても洗練されているものである。ディテールを削ぎ落とせば、そこには実に単純明快な骨格があるのだ。当たり前のことだが、どうも勘違いされやすい。そこを見誤って骨格をおろそかにすると、リメイク版「プリズナーNo.6」のような作品になってしまうのである。
(つづく、というかタイトルで分割)