久々にジャンプの感想でも書こうか

といってもあまりに久々なんで、今週号分でなく長文で概論的なのを2作品分。

バクマン。
有り得べき、そしてまだ見ぬ「ジャンプ作家がジャンプ作家の姿を描いたマンガ」を仮に『まんが道』とすると、『バクマン。』は『ハムサラダくん』だ。事実に基づく「イベント」やエッセンスを随所に注入しているものの、人物設定やストーリはあくまでも虚構。これって話作りに融通がきく一方、どこまでやっても嘘くささが抜けず、迫真性は薄いんだよね。嘘なら嘘で、『コミックマスターJ』くらいまで「嘘だからこその要素」をやらないと読みごたえがない(『J』は終盤やり過ぎだったが)。

ただ、そんなことより問題なのは、事実性を薄くしたにもかかわらず、批判性・批評性が弱い(無い)ことのほうで。担当編集者とのセンスのギャップとか軋轢はあっても、それは人対人の水準でドラマとして消化されてしまい、ジャンプシステムそれ自体は常に全肯定だ。

だから言ってしまえば「週刊少年ジャンプができるまで」の学習マンガみたいなものだ。ジャンプに載ってるんだから当然といえば当然なんだけど、それにしてもなぁと思う。かつて「スピリッツ」が自分のことを棚に上げて『編集王』だの『サルまん』だのを連載したことを思えば、なんというか、無味無臭といっていい。無味無臭が言い過ぎなら「毒にも薬にもならない」くらいでもいいが。

それともうひとつ、これは好き嫌いの問題だけど、『デスノート』と同様、連載に最適化した物語構成が私はどうもいただけない。せいぜい4、5回先くらいまでしか視野に入れず、その場その場の盛り上がりを重視。先に進むにつれてボロボロと矛盾や超展開が生じてくる。連載冒頭に掲げた大目標、「高校生のうちにアニメ化」があっさり潰えたのは多分予定どおりなんだろうけど、一事が万事で、単行本数巻にわたる長編としての展開を見越した構成になっていない。まぁ、これはある意味で実に正しいジャンプマンガの姿なので、嫌いだとは言っても非難はしない。

そうした不満を抱きつつ、それでも読んでいるのは「自己言及性」の面白さだけは(直接は自己言及しないことによって)維持していることで、人気原作+作画コンビにこれをやらせた企画それ自体は高く評価したいのだ。
 
めだかボックス
2巻を読んで西尾維新すげぇなあと思ったのは、人気作家であるにも関わらず、ジャンプというフィールドのルールに従って、アンケートの反応をうかがいながらこまめに話の舵を切り直している(と見受けられる)ことだ。

連載開始当初の人助けパターンはイマイチ反応が振るわないとみるや、なりふり構わず水着回を連発。そこで連続話の競技大会(水中運動会)も始める。それでも人気が上向かないと、予定していた展開(現状で空席である副会長のスカウト)や、タイトルである「ボックス(目安箱)」さえもほったらかして、風紀委員会相手のバトル展開に突入。さらには、古くは「死亡遊戯」パターンと言ったジャンプ伝統のダンジョン(orタワー)攻略キャンペーンも始まって(3巻以降だが)いかにもジャンプマンガらしくなり、掲載位置は未だ低空ながら、良くも悪くも安定感をまとうようになった。

ジャンプに合わせているのか、はたまた元よりそういう資質の作家なのかは知る由もないが(あるいは、ここまでの展開は全て予定どおりで、いちいちアンケートの反応を見ているわけではないのかもしれないし)、なかなかに面白い存在である。

んで、連載のほうの展開は一段とジャンプらしさを増した。というのは、「仲間のサブキャラがメインとなってバトル、その間主人公は端で見てるだけ」の話をとうとうやってしまったのだ。過去に猫実先輩VS雲仙姉という例外(あるいはテストケースだったのか?)はあったものの、「中心は常にめだか」の基本は外さなかった。そこがこだわりどころと思っていたが、とうとう狂言回し役だった善吉メインのバトルを描き切り、またひとつ「ジャンプマンガのパターン」をこなしてしまった。どうみても普通でないのに劇中の水準では「普通の人」だったり、「特訓した」といいつつ何をしたかの描写が一切無かったり、重傷を負ってもとにかく死なない根拠は精神論だったりするのも実にジャンプマンガ。悪くいえば「ありがち」で、これで人気が落ちるということはないだろうが、良くも悪くも、今後どうなるのかが気がかりなところだ。