「明日地球が爆発して終わる世界」の世代論

2009-10-08付『「つぎの日ちきゅうがばくはつしておわり」の世代論』の続き。小松左京に「くだんのはは」という短編がある。私は過去に二度読んでいるのだが、初めて読んだときと二度目に読んだときとで全く読後感が違ったのだ。
概要は有名な短編の割に、ラストはあまり知られていないような気がするのでごくシンプルに、かつ白文字で書いておくが、
ごく近い未来の予言を繰り返して、家の支えとなってきたくだんの予言者が、あるときから全く予言を告げなくなった。これはまさか――。
というもの。80年代に読んだときには実に肝が冷えたものだが、21世紀にはもうその恐怖を味わうことができなくなっていた。
星新一の「午後の恐竜」も同様、初めて読んだときと二度目(はマンガ化されたものだったが)とでラストの印象が全く違った。理由は「くだんのはは」と同じである。
我々はあの頃確かに、明日地球が爆発して終わる世界を生きていたのだ。そして、今は違う。現代にも終末観…めいたものがあるとしたら、それは如何なるものだろう。