ケータイはバディか?その3 ―相棒か自己の拡張領域か

(承前)
ケータイは個々のユーザーにカスタマイズされるが、それはバディと認められてのことではない。セグニティが売れなかったのもまた同様で、ワンセグTVにはバディとしての性格が求められていない、とみる。
それは何故か。また、バディとしての性格を持ちうるものとは何か。ちょっとスカした言い回しを使って書いてみたい。

【人間とモノとの関係は通常「人間:モノ」で完結しているのに対して、TVや電話は「人間:モノ:放送局」「人間:モノ:人間」の関係である】

この差が実はかなり大きいのではないだろうか? 「人間:モノ」であればモノにパーソナリティを付与してもいいだろう。ナビゲーションソフトがその代表だ。「イケメンバンク」あたりもこの例に挙げられよう(2008年11月17日付「ツンデレ姫がレディに育って工業界にデビューする時」参照)。

しかし「人間:モノ:人間」ツールでは、見てのとおりモノは「間に挟まっているもの」に過ぎない。機械の向こう側にある人やコンテンツとつながるためのツールなのだ。可能であればツールの存在感は消してしまい、「人間:人間」に直結したいのではないか。

すなわち、求められる進化の方向性はバディではなく、ウェアラブル化か果てはインプラント化(体への内蔵)だと考えられるのである。存在感をあえて残すにしても、そこで期待されているのは緩衝装置の役目だろう。

セグニティの敗因は、この仮説からある程度説明できると思う。ツンデレという形でのパーソナリティの付加は、その本態的な機能にそぐわないのだ。愛着どころかフツーにウザイのである。愛着主義に基づく、モノへのパーソナリィの付与は今後も続くだろう。だが、「そのツールは『人間:モノ』か『人間:モノ:人間』か」。これを十分に吟味したうえでないと、セグニティ同様のしくじりを繰り返すのではと危惧される。

あんま不景気な話だけだとジメッとしてしまうので、今後の可能性も考えてみる。

例えばケータイ機能の多様化・複合化がより一層進んで、電話やメール機能、ウェブブラウズ機能はワンオブゼムと化し、「人間:モノ」で完結する使い方のほうがメインになったあかつきには、まずバディとなり得るだろう。例えばおさいふケータイ機能と絡めて「バディ、君が今月玩具に費やしたお金は既に2万円を超えている。自制したまえ」とか。大きなお世話だ! …っとこの場合、内心わかっていても抑制が外れがちなことを外側から指摘してくれる、これも「自己の拡張領域」として機能するというイメージだ。

もう一つの可能性としては「『人間:モノ:人間』のモデルを維持したまま、モノが仲介者・緩衝装置という役割においてバディとなること」か。



まあ、なんだ。そもそもここまでの分析は全くの見当外れで、実はセグニティはただ単にまだ技術が足りなかっただけかもしれない。セグニティのことを最初に聞いたとき、電子番組表から視聴傾向を分析して台詞が変わるものを想像したものだ。

例えばツン期の台詞にしても、番組内容に応じて「なあに、いい歳してアニメぇ?」とか言ったり。あるいは裏番組を検出して、「え〜? 私が観たいのはサッカーなの!」とか、より具体的にヒドイことを言う。それがデレ始めると、ユーザーの視聴傾向を覚えて「ね、ね。○chでやってるのがおもしろそうだよ?」とか言ったり「こっち見逃しちゃだめっ!」とチャンネルを変えたりと、ガイド機能を発揮するレベルに達していたら……。
……。
………やっぱ邪魔なだけか(苦笑)。
そもそもワンセグの電子番組表は使い物にならないレベルで貧弱だし。