ケータイはバディか?その2 ―バディケータイとデコレ携帯の差

(承前)
そのため、ここでひとたびソフトバンクが力を入れているTVドラマ『ケータイ捜査官7』の話をしたい。
基本設定をかいつまんで説明すると、人間的な性格までそなえた超高度なAIを搭載し、手足をも持つ携帯電話型ロボット・セブンが、高校生にして秘密組織のエージェントである主人公・ケイタのバディとして、人知れずサイバー犯罪と戦う……という物語。
なぜに超高度AIをもつロボットがケータイの形なのか? それは物語内で10年前、「AIに形をもたせたい、ユーザーが感情移入できる存在にしたい」という技術者と、「形よりも実用性、有益性こそ優先すべきだ」という技術者とで意見が対立した際に、ふたりの間に立つもう一人の技術者が、公園でひとりの子供と出会ったことがきっかけだ。
その子供は自分のケータイに名前をつけ、ケンカをした友達との仲裁をしてくれるパートナーのように扱っていたのである。それを見た技術者が「なるほどケータイってえのは、人が感情移入しやすくて、しかも実用性が高いツールだな」と気付いたことから、歩くケータイの開発が始まった……との経緯が劇中で語られている。
実用性が高く、かつ『感情移入できる』ツールであるケータイ。それがバディたる自律型ロボットに仕上げられた。――フィクションとしてなら、これは十分「アリ」といえるものだ。
だが待て。そもそも本当に、人はケータイに感情移入しているのだろうか?

さて、川口盛之助には『オタクで女の子な国のモノづくり』(asin:4062820633)という著書がある。そこで取り上げられているひとつのトピックが、「デコレ携帯」(デコデンって言わね?)だ。

最近では、それ(注・既製品の着せ替え携帯)がさらに進化して、ガラスのビーズや小さなタイルを透明な接着剤で携帯電話機に貼りつけたり、ロゴマークや柄模様のパターンをシートから転写してオリジナルなデザインで覆ったりする「デコレーション携帯(デコレ携帯)」というコンセプトも生まれ、女子高生を中心に流行しています。ここに至って、携帯電話機のカスタマイズはさらに進み、「私だけのマイ携帯」という方向性がぐっと絞り込まれてきたと言えるでしょう。(p66-67) 

これもまず好記事なのだが、しかし「デコレ携帯」と前述の「愛着主義」とをもしも同列で考えているのなら、私はそこに異義を唱えたい。ケータイのカスタム化・パーソナル化は確かにひとつの潮流である。しかしそれは、ユーザーがケータイにパーソナリティを付与しているのではなく(引いてはケータイがパーソナリティを得ることではなく)、ユーザー自身のパーソナリティの延長として、身体の一部として着飾る道具(ウェアラブル・ツール)とケータイを位置付けているのではないか。
着せ替え携帯にしてもデコレ携帯にしても、「この世にひとつの私だけのマイケータイ」は、しかしバディとしての存在感を認めてのことでなく、「私を飾る、私を主張するアクセサリ」と意識してのことと思えるのである。

そこから、セグニティの敗因も見えてくる。
(つづく)