ギエロン星獣vsムルロアの対決

今日はファミリー劇場の『ウルトラセブン』がちょうど「超兵器R-1号」の回で、続けて放送している『ウルトラマンタロウ』の前回・今回の話との比較が面白かったです。前回のコメントへのお返事方々そのあたりにふれてみます。

>最初は「地球を助けてくれる他者」として位置付けられていた
ウルトラセブンは、他の「地球人に憑依したウルトラマン」と違って、本人が地球人に変身していることもあり、ウルトラシリーズの中でも特にその「他者性」が顕著です。
「超兵器R-1号」では、地球人たちは新兵器の実験場に選んだギエロン星に生物はいないと確信していたのに対して、モロボシ・ダンウルトラセブン)は「僕は何としてでも実験を止めるべきだった、それが出来たのは自分だけだったのだから」とひとり後悔しています。ギエロン星に生物が住んでいること、そして実験が地球にも厄災をもたらすことを知っていたわけです。地球人と違って。
止めなかった結果、R-1号の爆発でギエロン星の生物・ギエロン星獣は怪獣化、地球に飛来して復讐とばかりに放射能を撒き散らす(こちらは「黒い煙」とか婉曲に言わずに、ストレートに放射能)。地球人は、それを倒すためにより強力なR-2号の使用を検討するがダンは強く反対、最後はウルトラセブンギエロン星獣を葬り去った…というストーリー。実は地球人は自前の軍備でもなんとか出来た(かもしれない)という点にも興味をひかれますがそれはさておき、他のいくつかの回も含めて、ウルトラセブンはかなり明確に「地球人にとって他者」と描かれています。
対してタロウはというと、エピソード内の時間配分の都合もあるのでしょうが、ムルロア星に生物がいたかどうか、知っていたともいないとも描写が無い。ま、生物がいると知ってて実験を看過してはヒーロー的に問題行動だから、知らなかったのだろう。無論そこでウルトラセブン的な悩みを抱くことも無い。タロウはそうした知識や感受性において、地球人と大きく違ったところがなくなっているのです。なので、
>他者であったものが他者でなくなってきた,日本に同化して(されて?)きた。
という見は、かなり的を射たものではないか、と思います。……ってあれ? これだと結局、ハリィさんのコメントを手がかりに前回エントリの自説を補強してるだけじゃん(苦笑)。

で、そうしてシリーズ上での個々の作品の違いと、その背景となる時代とに注目しつつ「ヤマト」に話を転じると……難しいなあ。「ヤマト」は制作年=人気となった年でないので、ウルトラマンレオを最後にしてのシリーズ中断(1975年3月)と入れ替わりくらいのタイミングで人気が次第に盛り上がり、1977年に映画化、78年「さらヤマ」「2」、80年「永遠に」「III」ですか。この間ウルトラは「ザ☆ウルトラマン」(1979)に「ウルトラマン80」(1980)なので、私には絡めて語ることができないんですよね。

ウルトラマン80」の内容をつぶさに検討すると、「ヤマトIII」と同じ時代を感じさせるサムシングがあるかもしれませんが、それはいずれ観ることができたらにしましょう。いやまぁ、基本設定だけイジって

ファンタジックな大宇宙の女神の住まう星、シャルバード星の、しかし極めて「現実的」なハイドロコスモジェン砲によって地球を救う「ヤマトIII」。対して「ウルトラマン80」は、ヤマトもとい矢的猛はウルトラマン80という宇宙的なファンタジックな存在であると同時に、学校の先生として「現実的」な問題に対処しようとする。ここでいう「現実的」とは、どちらも「視聴者にとっての現実により近い」という意味だ。
「軍事超大国との同盟だけでは自国の安全が全て保証されるわけではない、さりとて最終的な解決手段もまた、より強力な超兵器である」という結末も、「怪獣に対処することと、学校で起こるトラブルを解決することも等しく大事」という基本設定も、「身も蓋も無い現実感」という点で等価といえるのではないだろうか。

とかなら書けますが……って、さすがにこれは我ながら苦しいや(苦笑)。