夢分析とノイズ文化論

承前。
唐沢商会の『能天気教養図鑑』(asin:487728558Xまたはasin:4792602173)は、「夢の話を人がしはじめたらそれに対処する方法」として、こんな話を紹介している。

こないだおもしろい夢みちゃってさ。塔があってさ、そこに登るの。
「高い塔か。典型的なペニスの象徴だな」
そんなに高くないんだよ。
「それはおまえのペニスが小さいという意識のあらわれだな」
ヒヨコがいっぱいいるんだよ、部屋の中に
「ヒヨコか。ヒヨコは何を喰べる?」
ミミズかなあやっぱり。
「それはお前のペニスがミミズなみだという意識下の悩みの象徴だな」
で、その部屋で俺、カレーライスを喰べはじめるんだ。
「それはお前のペニスが小さいということだな」
何でだよっ!
「カレーライスのつけあわせは?」
花らっきょう。
「らっきょう並だというコンプレックスのあらわれだな」

東京大学「ノイズ文化論」講義を読むなかで、なんだかこれを思い出してしまったのである。ある事例を目の前にしたとき、それを強引にフロイト心理学なりノイズ文化論なりの枠組に落とし込む。まず結果ありきで分析しているからどうしたって強引になってしまう。
もうちょっと真面目に言うなら、「それを「ノイズだ」と言う宮沢章夫がいる」ために……個々の事例に対して「ノイズ」というレッテル貼りが行われるために、各事例が本来もっている個別性は剥奪されてしまう(=ノイズが排されてしまう)のだ。
読んでいてどうにもイラつくのは、著者はそのことに無自覚らしい、という点。自分のやっていることの矛盾に気付いていて、あえて目を逸らしている、わけではないよな……。エクスキューズが無いし。
私は別に「我は我である。」式のことを言っているのではないのよ。ある社会なり文化なりの枠組みの中に、宮沢のいうノイズが存在したとして、それは宮沢語の「ノイズ」では無くその枠組みの中において「排除されがちな何か」「非主流の何か」として扱わなければならないと思うのだ。そうでなければ、「その何か」を「それ」として分析することはできないし、「ノイズだ」と名付けた時点でそれはもうノイズでしかないのである。
「そうしたものを横断的に扱うことにノイズ文化論の意義があるのでは?」という向きもあろうが、宮沢の論はあまりにも手を拡げ過ぎで、あまりにも散漫で、そうした意義すら獲得できていない。音楽のジャンルとして成立した『ノイズ』。酒鬼薔薇事件で噴出したニュータウンの『ノイズ』。被害妄想の喫煙者である著者が自己憐憫に用いる、喫煙という『ノイズ』。近視眼的なマスコミが排除する、情報の中の『ノイズ』etc.etc.… もしも宮沢がそれらを「ノイズ」と名付けなければ、もとより同列で扱うべくもないものが、あまりに多いのだ。
つづく。