ただの人間より芝村の友として生きよ、と少女は言った

(承前)
いやーあまり婉曲に書くと、どこか本音でどこが建前かも伝わらなくなるもんですな。まぁ私は「誤読の自由」擁護派ですし、伝わらないのは私の文章力の無さ故と捉え、以下の根本的な1点以外は言い訳も説明もいたしませんです。

やはり文章って性格とか思想が滲み出るじゃないですか。
そういうのを感じ取っての暗之云さんの感想だと思ったのですが…

そう読めたのなら、それはそれで興味深いのですが……。私自身もまた冒頭で、

全体に、著者が読者として想定した「ごく一般的な日本人」があまりにも低レベルではないかとは思うが、一方で「確かにこんなレベルから語り始めなければならないかもなぁ」と、民度の低さを改めて知らされる思いもする。

つまり「今の一般的な日本人って確かに著者が想定する程度に低レベルだよね」と見下している、これが大前提なんですよ。まぁ、それを感じさせないのが私の性格だと言われればそうかもしれませんが。



で、昨日書いたことの繰り返しになりますが、「見下してる感」がにじみ出たとしても、それは著者の性格の問題ではなく、現代にあって「思想」というもの全てが抱える問題なんです。
思想なるものを、社会に対して、現状分析以上のことに用いるとなると、「啓蒙」とならざるを得ない。しかしそれは、蒙とされた側の自尊心を傷つけて、「見下してる感」を感じとられてしまう。
近代では啓蒙という方法も有効だったのですが、社会が経済的に円熟して「難しいことを考えずに過ごす生き方」でも平均的な暮らしができ、一方では個々の自尊心が肥大した現代の日本(=脱近代・ポストモダン)にあっては、啓蒙は拒絶されるという問題です。面白いですよね、個人主義を称揚しても、他ならぬポストモダン的状況がその普及を拒む。これを踏まえると、WEB2.0の行き着く果てはやはり衆g(ry
すみませんちょっと脱線しました。もっと単純に、著者の主張だけから問題を抽出することも可能です。わかりやすく言い換えで書いてみましょうか。

僕たちは世代を超えて「庶民」でいることが大好きだ。
学者の考えてることや言う事には「庶民にはついていけない」。
「庶民」には難しいことはわからないけど、学者にきっとなんとかしてもらえるだろう。

とまあ、庶民がそうしたものだとしたら、「本来の読者」たる彼らには初めっから伝わらないわけです。そうして「「庶民」でない学者たちが政治・行政・経済を何とかしようとして力尽き、汚職に象徴される不正の温床ができあがる」という結果に行き着くのでしょう。
もちろん「庶民」だって、政治家や官僚の不正が、あるいは学者の物言いが「気に食わない」と思ったときは声を上げます。ただしそれは言葉の体を成さないわめき声でしかありません。そのうえ啓蒙も拒むのであれば、(民主)立憲主義もそれに合わせたものに「改善」すべきなんでしょうね。
でなければ、芝村に世界を征服していただくか
でしょうか。「皆が個人主義を生きる社会は、独裁によってのみ実現する」なんてのは、随分と寂しい話ではありますがね。