ゲームブックという源流

仕事でたまたま目を通した『Illusutration』誌07年5月号にライトノベルの小特集。新城カズマのインタビューが3ページ掲載されていた。「ジャンルではなく『手法』である」というタイトルから察せられるとおり、本題はおおむね『ライトノベル『超』入門』(asin:4797333383)のおさらい (そういやこれの感想も書くといいつつほったらかしだな)だったが、カコミ扱いのこんな記事は目を引いた。

ライトノベルのプロトタイプは「ルパン三世」!?
右は新城さんが最近"発掘"した書籍。アニメ版「ルパン三世」の小説とゲームブック(読者の選択でページを読み進める、ゲーム仕立ての本)で、1986年に双葉社から出版されたもの。86年は富士見ファンタジア文庫角川スニーカー文庫が創刊される2年前だが、表紙や本文中のイラストレーションの用い方など、ライトノベルとの類似点が多く見られる。
(以下略)

双葉社とスタジオハード、レッカ社らが粗製濫造もとい大量生産していた『ルパン三世』タイトルのゲームブックラノベの源流だという「発見」は、なるほど言われてみればという感じではある。ただ、ゲームブックではなく『ルパン三世』をフィーチャーしていることに、苦笑いを禁じえない。
1988年には既にPBMのマスターを務めていた新城カズマこと柳川房彦が、その時代にファミコンゲーム原作のゲームブックが粗製濫造もとい大量生産されていたことを知らないとは考えにくい。「ほら、ラノベ以前にはこんなのがあったんですよ」と、一例のつもりで『ルパン三世』のゲームブックを見せたら、担当ライターor編集者はルパンのほうに食いついたのだろうな、と推測する(『超入門』の一節にも絡めやすいし)。
ちなみに『グラディウス』になんの思い入れの無い私がそのゲームブック版を買ったのは、加藤洋之加藤龍勇)・後藤啓介のカバー絵が気に入ったからである(笑)。
それにしても、単にラノベの源流というだけだけなく、オタク文化史・精神史の中でもファミコン原作ゲームブック群の存在は実は重要なのではないか? 『ウォーロック』だったか『ゲームグラフィックス』だったかのライターは「シューティングゲームを原作にしてゲームブックにできるなんて恐るべき想像力だ」と……おそらくはそれら作品を手にせずに……揶揄していたが、事実その通り、恐るべき想像力の産物なのだ。
自機と敵の名称と、せいぜい国の名前程度しか設定の無いシューティングゲームや、「パワプロ」などのストーリー要素は皆無に等しい野球ゲームに物語を与える。物語を作るために背景や小道具・大道具の設定も細かく作る。先の『グラディウス』の例だと、オプションが「接触した相手の能力をコピーすることができる珪素生命体」という設定にされていたのがひどく印象に残っている(後日、実家で実物を確認してみよう)。
本来は物語の無い作品に、物語を与えたという点、そして設定を細かく作成したという点、オタクの「妄想力」の源流といえるのではないだろうか? 後年の「メタルブラック」のような、予めメーカーサイドで偏執狂的にガチガチと細かく設定を固めてしまう作品も、こうしたゲームブックの流れの先に捉えると面白いかもしれない。