伝説巨神イデオン最終回「コスモスに君と」

昔、ゆうきまさみによるパロディ漫画の一幕にこんなのがあった。
……最終回、ドバとカララが対峙する場面。そこにベスが駆け付ける。
ベス「待ってくださいお父さん!」
ドバ「異星人にお父さんと呼ばれる筋合いはない!」
ベス「何を隠そうお腹の子の父親は私なのです」
ドバ「なに?」
 当惑するドバ。先ほど思わず斬りつけたジョリバを指して。
ドバ「父親はこの男ではないのか?」
カララ「違います」
ドバ「(ジョリバに平頭し)これはすまんことをした」
ジョリバ「(傷を押さえつつ)すまんですむかーっ!?」
 バツの悪い表情のドバ、カララとベスをちらと一瞥し、プイとそっぽを向いて。
ドバ「お前とはもう父でも娘でもない。その男と何処へなりとも行ってしまえ」
 なんとか威厳を保とうと重々しく言う。一方でカララは落ち着いている。
カララ「子供が生まれたら実家に遊びにいきます」
ドバ「儂はまだお前を許したわけはないぞ!!」
 背中を向けてずんずんと立ち去るドバ。
カララ「お父様!」
ギンドロ・ジンム「(好々爺然と)まぁまぁカララお嬢ちゃん。ドバ様には私から取りなしておくから」
 そして撤退するドバ艦隊。あっけにとられるイデオンのクルーたち。
コスモ「助かったのか、俺たち……?」
カーシャ「こんなにあっけなく……」

細部は違っているだろうけどだいたいこんな流れ。ほのぼのしたホームドラマへの矮小化で笑いを誘うパロディなのだが、見事に「イデオン」という物語の本質を突いている。誤解を恐れずに言うなら、「イデオン」に描かれた人のエゴだ調和だという「哲学」とやらなんて、この程度の話なのだ。ほんのわずかに状況が違っていたら解決してしまうような(あるいはホームドラマに化けてしまうような)、つまらない誤解と無理解でしかない。
イデオン」が熱狂的なファンを集めたのは、まず哲学の深みや説得力とは別の次元でのことだろう。つまるところ「当時はお子さま向けと見られていたロボットアニメにおいて、そうした哲学を全面に打ち出した」という事実ゆえに、である。それは確かにひとつのジャンルの成長であり、ともに成長したアニメファンにとって(あるいは、社会や家族の要請により成長せざるを得なかったアニメファンにとって)は、その時代、その時期のかけがえのないシンボルだったものと思う。
しかし、それはそれとしてイデオンは面白い。波瀾の人間ドラマは(感情移入のやり場には困るが)見ごたえがあるし、「富野節」と呼ばれる独特の台詞回しや演出は(この頃の作品ではまだ)スタイリッシュ。そしてなんといってもイデの設定が秀逸だ。「かつて第6文明を滅ぼした」「バッフクランの伝承」にも語り継がれる「人の意志の集合体」たる「無限力」には「防衛本能」に加えて何かしら「明確な意志がある」、そしてソロシップのクルーをはじめとする「人の運命を弄んでいる」……。こうしたイデの設定が見事に、前述した卑小な「哲学」を宇宙的・神話的スケールへと昇華させているし(そこで生じるギャップ感にこそ哲学があるともいえる)、一方でイデを巡る謎解きによって視聴者の関心を持続させることにも成功している。
しかし、イデの無い世界でその卑小な哲学を……ホームドラマかメロドラマで語るべきエゴだの調和だのを語ろうとするとどうなるか? (つづく、かもしれない)