ゲームと現実との区別

少年犯罪に関する紋切り型のコメントに「ゲームと現実との区別がつかなくなった若者」というものがある。このフレーズ、ライブドア堀江貴文についての報道を目にするたびに思い出してしまう。
ニッポン放送株買い付けに関して、そこに堀江の「理想」とか「志」は求めるべくもなく、魅力あるヴィジョンすら示せない。陳腐な言葉で既存メディアの危機を唱え、浮付いた未来予想でネットの優位性を説くだけだ。当然、買収される側のメリットも……企業価値の上下が俎上に上がったにもかかわらず……未だ不明瞭だ。ディスプレイの向こうの出来事として観戦する分には、制度の間隙を撃って腐臭漂う旧習を破壊する、頼もしい新世代のヒーローにも見える。だが、現実に堀江を社主と仰いだときに「この人に付けば会社はいいほうへ進む」「この人となら面白い仕事ができる」と思えるだろうか。あえて言を弄するなら、堀江にはまばゆいばかりのスター性はあるが、信を置くに足るカリスマ性が無いのである。
堀江は様々な意味においてまさにトリックスターであり、トリックスターでしかない。道化は宮廷にも求められる。道化は歯に衣着せず場をわきまえず、ときに王座に掛けることすらあろう。王達は寛容をもって道化を扱い、その振る舞いに箴言を読み取るべきだ。だが、だからといって道化が王に成り代われるわけなどない。
そこまで話を大きくしなくとも、まず野球チームや地方競馬と、マスコミとを同レベルで「金で買えるもの」と捉えているあたり、どうにもシミュレーションゲーム的と言わざるを得ない。堀江にとっては社会的重要性や信頼性すら「数字」でしかないか、あるいは最初からパラメータ化されていないのだろう。さしづめ「マネーゲームと企業経営の現実との区別がつかなくなった若者」といったところか。……つーかぶっちゃけバブル長者としか。「現代の若者」いう以前に。「失われた10年」を経て15年前に戻った感じ。