太宰で笑うのはヘンか?

窪塚洋介、太宰作品にハマる「ゲラゲラ声を上げて笑いました」
6月17日8時40分配信 シネマトゥデイ(Yahoo!ニュース)
 
俳優、窪塚洋介が16日、東京・シネセゾン渋谷で行われた出演映画『パンドラの匣』(冨永昌敬監督)の完成披露試写会で、日本文学に目覚めたことを語った。
(略)
原作を読み、初めて太宰文学に触れた窪塚は「日本文学ってこんなに面白いんだと衝撃を受けた。太宰という名前に暗いイメージがありましたが、一発で払拭されまして。ゲラゲラ声を上げて笑いました。日本文学を読み始めるきっかけになった作品(映画)です」とドップリはまった様子。

療養所の患者の一人で詩人という役どころに「一番最初に療養所を出て行く役ですが、『治ってないだろう、お前!』っていう結核さ加減の演技に注目して」と持ち前の独特の言葉遣いで軽妙にPRし、観客の笑いを誘うひと幕も。「笑ったといいましたが、プラス考えさせられたり、思わずメモってしまうところもあり、最後で涙してしまう。ひっくるめていい作品です」と呼びかけた。

「太宰という名前に暗いイメージがありましたが、一発で払拭されまして。ゲラゲラ声を上げて笑いました」……この感覚って、窪塚と同様に「太宰作品は暗い、重い、生きることのナンタルカを描いている」といった世評のほうを先に聞いていて、後から実際に作品、特に『パンドラの匣』とか『津軽』を読んだ人間には、素直に頷けるものだと思うんだけどなー。すなわち今現在にあっては、実際に読んでいる人なら、その大半に理解できる感覚でしょう。

どうもYahoo!ニュースのコメ欄を読んでいると、「暗い、重い」の世評の聞きかじりだけを根拠にして「ゲラゲラ笑った」という感覚を変人扱いしている人間が、あまりに多過ぎると思う。

いやまぁ、発言者が窪塚だからそう捉えられるのもやむなしだけど、なんつーかなぁ、「読んでいない人間には、読んでない作品を叩く資格は無い。そしてまた、誰が口にしたものであれ読んだうえでの感想を叩く資格は無い」というのは、何者も破ってはならない鉄の掟だろうに。

もうひとつ別のレベルで「あーあ…」と思うのは、読んだか否かを問わず、「それが純文学であることを理由に、高尚なものだと信奉している」人間のあまりの多さ! 今でもこういう手合いがマジョリティなんですね……。

昨年か一昨年くらいだったか、「カラマーゾフの兄弟」がカラキョウと略され、「エキセントリックな人物たちが繰り広げるスチャラカ非喜劇」として読まれた(んだよね?)あたりから文学に対する人々の態度も変わってきたかと思っていたんですが。

逆に、「それが純文学と称されていることを理由に、妬み、怨念を抱き、軽んじる」人間も少なくないんだろうな(山本弘とかはマァ、そういう姿勢を取りつつ自分の作品で自分なりの答を見せているからいいんですが)。

漫画やアニメ、ゲームという表現によって世に出た作品の中に、「(狭義の)純文学に匹敵する」ものがあるのだから、それとは逆に「漫画のように愉快な純文学」があるのが道理。というか、現にある。漫画か文学かは、単に表現方法の差でしかない。核において「生きることのナンタルカを描いている/読者にそれを考えさせる力を持つ」作品が、表現において漫画であったり、重厚な文学であったり、ゲラゲラ笑える軽い文学であったりすることは往々してある。

80年代的センスといわれそうですが、私の実感としてそれは現にあるのに、世の中はいつまで古い規範の前に盲目でいるつもりなんでしょうか。