街の監視カメラと小学校の隠れ場所

承前、もういっちょ『東京大学「ノイズ文化論」講義』(宮沢章夫asin:4861912849)関連の話を。
といっても、読んでいてフト思い出したことの覚書(論の展開やそもそもの論旨にちょいとばかり問題があっても、何やかやと「フト思い出す」ような刺激があるのだから、実のところいい本だといえるだろう)。「九五年問題」とかいう、社会のセキュリティの強化についてだ。

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阪神淡路大震災、それからオウム事件によって生まれた「安全である」ことに対する……アレルギーみたいなもの。ひどく強い「安全性への欲望」というか。そこで、「排除」と「隔離」が生まれる。

五十嵐太郎の『過防備都市』(asin:4121501403)『美しい都市、醜い都市』(asin:4121502280)あたりも、監視カメラが街中に氾濫する現状をテーマのひとつとしているし、未読だが鈴木謙介も『カーニヴァル化する社会』(asin:406149788X)で「監視社会」を取り上げているとのこと。フィクションの世界では既にその価値観が一回転、新城カズマの『サマー/タイム/トラベラー』(asin:4150307458asin:4150308039)は、自覚的に24時間監視され、記録される、<倶楽部>なる存在を大道具のひとつとして用いている。「監視」はどうやら現代的なテーマのひとつらしい。
そこで思い出すのが、K県のF市立M小学校だ。
たしか2000年のことだったと思う。仕事でたまたま、当時完成したばかりの校舎内を見せていただいた。この校舎、空から見下ろすと一目瞭然だが、緩やかな波形(〜)を描いているのが特徴のひとつである。これについて私は、当時の校長先生から「児童たちのため、あえて先生たちの目が届かない空間を作っています」との説明を受けた。
あいにく、そのひと言以上の詳しい説明はきけなかったが、校長先生の誇らしい笑顔とともに、その言葉は強く記憶に焼き付いている。M小学校ではいじめの問題が皆無だった、とは思えないし、加えて当時は「学級崩壊」なる語が広まりつつあった頃だ。にもかかわらず、監視の強化とは真逆の選択をしていたのだ。
その後7年を経て、この新校舎しか知らない児童もいまや中学生である。M小学校では学級崩壊はどうなったか? 卒業生の進路は如何なるものだったか? 校舎というハードウェアと、校長以下教員たちというソフトウェアは、果たして正しく機能したのか? といった疑問が、私の心の片隅に引っかかっている。そして詰まるところ……
「監視社会と隠れ場所のある小学校、果たしてどちらが正しいのか?」
宮沢の言葉を借りて言うなら、『いじめという「排除」は、監視を緩めることで減少させることができたのか?』ということである。 
ま、本気で調べる気があるなら、まずはM小学校の設計者である(株)K構造研究所(ここだけ伏字ではなく正式名称)とコンタクトをとって、コンセプトの詳細とそれが決定するまでのプロセスを伺ったり、F市の研究授業のレポート等を当たってみたりと、色々と方法はあるんだけどね。そういう、一番おいしいところは他人のためにおいておくのが私の優しさ(また他人任せか!)。