祝祭と消費

今年は里帰り優先で夏コミには行けず。秋葉原の同人ショップへ新刊の動向を見に行くものの、どこもえらく混んでいてざっと眺めた程度。とりあえず「仕切るの?春日部さん」の18禁同人誌(しかも有名サークルの新刊なので扱いが大きい)に魂消た。

それにしても、とふと思う。コミケとは本来、オタクという共同意識による共同作業と交歓の場……「祭」であったはずだ。ならば、「祭に参加する者」ではない、「限定物を買いに行く客」という意識で来る者は、コミケにとって何なのだろう。

無論、今日的にはコミケは企業すら出店する文字どおりの一大「マーケット」であり、それはつまり「消費の場」に他ならぬ、ということである。それはわかっているが、それでも「ただ買い物だけを目的として訪れる者もまた(その時、その場にいるという点において)祭を共有する者であり、その点において十分に共同意識をもっているといえるのか、それともあくまで共同意識の『外』の存在なのか」を考えずにはいられない。

ただ、ひとつ指摘しておきたいのは、「参加者」であれ「客」であれ、非オタという「外」を共有している、という点である。コミケに足を運んだ者や、間接的であれその恩恵に浴した者はみなオタクというレッテルで分類可能であり、その趣味に理解なき者という「外」の存在を感じている。いささか逆説的だが、共有する「外」がある限りは、共同意識は成り立っているといえるのではないだろうか。だから、その核であるコミケは今も変わらず「祭」なのだろう。五月蜂。

いつだったか、大塚英志(また書いてしまったが嫌いなわけではない)が、いわゆるオンリーイベントの隆盛(オタクの細分化の進行)によってコミケは特別な日でなくなった、という珍説を開陳していたが(大意、読み違えている可能性有)、私はそれを「仮に特別でなくなったとしたら、それは単に『とらのあな』等のショップで同人誌が格段に入手しやすくなったからだろ」と嘲笑ったものだ。

これを「祝祭の日か消費の場か」という問題の中でとらえたなら、同人誌が消費物である者はショップでほとんど用が足りるようになった、しかしそれでもコミケはありつづける、という現状認識になる。つまり、同人誌が商品としてよく流通するようになった、だからこそコミケの祝祭としての性格はむしろ強くなった、といえるのではないだろうか(ショップにおいてもなお「夏コミ新刊」のラッシュによって祭の熱気を感じることはできるのだが)。