ゾイドジェネシス#50「再生」感想

1話分ほぼ全部かけて決戦を描いた最終回……う〜ん。率直に言って消化不良だ。スタッフにしてみれば「これまでキャラクター描写に時間を割き過ぎてたし、戦闘はちまちまと作戦立てての集団戦がメインだったから、最後くらいはいかにもロボットアニメっぽい力押しバトル&不思議パワーアップ&『やらせん!乱入』とか『実は生きていた』とかのお約束満載で華々しいヤツを見せますよ〜っ!!」というサービスのつもりだったのだろうが……。なんだか空回り気味のような。
 
閑話休題、ここにきて、ゾイドに乗れなかったことによるルージのコンプレックスの大きさが劇中で明言された。だからこの物語は、そんなルージがひょんなことからムラサメライガーを得て、村の外に出て、仲間たちを得て、様々な経験を経て、ラ・カンの死も経験し、ついには大軍を率いるに至り、そして敵将を討ち取るに至るという成長と立身出世の物語として、行儀良くまとまってはいる。
しかし、そもそもムラサメの大刀(≒ムラサメライガー)がなぜ願いを聞き届けたのかという肝心の部分は不明だし、後は頼んだぞと言っていたラ・カンがしゃしゃり出てくるし、討伐軍は今回ルージの指揮とは無関係だし、ルージのカリスマによって士気が上がるという描写も今回はごくわずか。一年の物語の締めくくりのはずが根幹の部分から遊離している。何より不満なのは、多くのファンが思っていることだろうが、ルージの成長を支えた仲間たちそれぞれの物語が完結していないこと。止め絵ワンカットずつ程度であれ、後日談は語られるべきだったと思う。
さらに、最後の最後にルージは故郷へ帰っているが、ストーリー上そこでの「日常」はまだ保障されていないために、「行きて帰りし物語」としても座りが悪い。これについては「みんなが笑顔でいられる世界」が実現されたのだ、と思いを巡らすこともできるが、やはりここは視聴者の想像に任せずきちんとした後日談の描写が必要だったのではないか。最低でもハラヤードに立ち寄る場面は欲しかった。エンディング後にジェネレーターの復活が映るというのも、綺麗は綺麗だが説明不足だし、短いシーンなので余韻として味わうこともできなかった。 
あとはフェルミの扱いが……。「生かしてはおいたけれど始末に困ったので、ちょっとカッコよく死なせてみました」な感じで、実に何ともこの作品らしからぬぞんざいな最期だった。大体、ソウタを救おうとして命を賭すなんてのは、今まで描かれてきたフェルミのキャラからは有り得ないとしか言いようがないのだが。
 
不満ばかりこぼしていても仕方ないので、誉めるべきところを挙げてみる。相変わらず巧かったのは伏線の後始末。無かったことにされたかと思っていた、デッドリーコングの背中の目玉の件を「コアが2つあるゾイド」という形で活用するとは予想外、かつ「実は生きていた」の理由付けとして説得力のあるものだった。その特異性を指摘できなかったソラシティはどうなのよ、という気もするが、きっとデッドリーコングであればコアが2つあるのは普通で、気にとめなかったのだろう (苦笑)。二つめのコアが入っている棺桶を取り外してスケートボード代わりにしていた件もスルー推奨だ。
エヴォルトするゾイドの秘密は、死と復活を繰り返すコアだと明かされて、最終的にそれがジェネレーター再生に使われたというのもよくまとまっている(やはり描写不足の感は否めないが)。
ラ・カンはバーリアの力に守られて助かった、というのは予想していた(だから前々回の感想も「光の中に消えた」とぼかした書き方をした)ので別に驚かないが、これも理由付けとしては上等の部類だろう。間違ってもセーフティシャt (ryなどと言ってはいけない。あのとき神の雷が届く前に既に爆発していたことも忘れてしまえ。ただ、生きているにしてもルージがジーンを倒すのを遠方から見届けて「遂にやったか、ルージ」とか、そういう距離は最後まで保って欲しかった。