盗作の倒錯

また角川書店ライトノベルレーベルで盗作騒動が起きた(ていうかビーンズってラノベなのか?)。

角川ラノベ、またも盗作発覚で発売中止&回収 作家は断筆を示唆
 角川ビーンズ文庫刊行の作家・葵ゆう氏のライトノベル『ユヴェール学園諜報科』に他作品からの流用が発覚し、葵氏がこの事実を認め作品が出荷停止、絶版、回収となることが5日、わかった。角川書店が同日付の公式ホームページで発表したもので、「他作品からの表現の一部流用が複数箇所認められました」と流用を認め、「本作をご愛読いただいた読者の皆様、書店及び販売会社の皆様、他関係者の皆様に多大なご迷惑とご不快な思いをお掛けしました。大変申し訳ございません」と謝罪している。今年6月には、同じ角川グループホールディングス傘下のアスキー・メディアワークス電撃文庫刊行の『俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長』も他作品からの流用で回収となっており、角川グループ内で1ヵ月以内に2度目となる盗作によるライトトベル回収騒ぎとなった。(オリコン)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100705-00000027-oric-ent

しかしこれも『俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長』のときと同じで、どうも私にはピンとこない。騒動ではなく、盗作行為そのものに違和感を覚えてしまう。
「盗作とかどうせバレるんだから、いっそのこと『桃尻語訳 枕草子』みたいなノリで、ラノベ文体の『邪宗門』(芥川龍之介の能力バトル小説)でも書いたらどうか。著作権保護の期限超えてるんだし」……なんてネタを考えたところで、違和感の正体に気付いた。
今般のラノベ盗作の問題点は、設定やプロット、キャラクターのパクリではない。漫画の「トレス疑惑」と同じで、「場面は思い浮かぶがどう表現していいかわからないから文章をパクる」あるいは「場面そのものを拝借する」のだ。
そこが、私の理解の及ぶところでない。
場面が思い浮かぶなら、思い浮かぶままに文章化すればいいのに。
場面を拝借するなら、場面だけ拝借して自分の文章で書けばいいのに。
いや実際、絵を描く練習として既存の作品を真似る、というのはわかる。でもさぁ、文章だよ文章。例えばイラストであれば、小さなカットひとつでも他の作品のトレスでないと描けない、なんてことはあるだろう。対して文章は、よほどのものでない限り他人が書いたものなど宛てにしないでしょ。いやまぁ「よほどのものだから盗作したのだ」という事情かもしれないけど、盗作のほうが手間だと思うんだがなぁ。
いずれにせよ、作者の頭にはまず「場面」があって「文章」は二の次という話。だったらハナっから小説家なんて目指すなよと思うのだ。もっと穏やかにいえば、脚本家を目指せばいいのに(脚本家が格下という意味でなく適性の問題として)である。とはいっても『俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長』も『ユヴェール学園諜報科』も厳然として小説なわけで、この点を深く考えると「ラノベラノベたらしめるものは何か」にまで行き着く気がする。



いや、むしろ逆か? 例えばその昔、故・野田昌宏氏は「SFはやっぱり絵だねぇ」とおっしゃっていたわけで、小説にビジュアルなイメージが先行するのは50年近く(だよね?)前から普通だった。大元帥は表紙画含めたペーパーバックのファンでありコレクターだったから、そういう意味で「絵だ」だったのかもしれないが、とすればそれこそラノベ的である。
ともかくも、SFはまず「絵」が重要であり「文章」は二の次だった。だから文章の巧拙は重視されず、文章表現レベルのパクリなど無かったし、その必要も無かった。ラノベではそれがある、ということは、実はラノベこそが文章表現を重視するジャンルなのかもしれない。