いつまで経てば感想文でない評論が一般化するのか

「誤読の自由」が唱えられたのって、もう30年か40年も前じゃないのか?

日経ビジネスオンライン連載「人生の諸問題」2月21日更新分
『就活生に「上から目線」と言われた兄、「次はいつ?」と慕われた弟 シーズン3・『強く生きるために読む古典』編 その1』
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110215/218452/

岡(康道)フランツ・カフカの「城」は)そこで、人間社会というものは、何とばかばかしいものだろう、というのが、いわゆる通常の読み方ですよね。事実、小田嶋はその通りに面白く読んだ、と。

市川真人(以下、市川) 「俯瞰して読む」ということですよね。

 そう、俯瞰して。ところが、(岡康道の弟の)敦は測量士Kに思い切り感情移入して読んでいる。(略)ええっ、そんな読み方がアリなんだ、と小田嶋は驚いた、と。そうやって『強く生きるために〜』を読み直すと、挙げられた古典が、すべてその内容というよりも、敦が「こう読んだ」という、彼独自の読み方について書いてある、と言っていた。

市川 その「読み方」についてなんですが、通常の国語のテストの問題では、「作者は何を言っているのか、答えよ」になりますよね。

 そうですよね。でも、小田嶋と話したのは、「作者が何を言っているか、ということで言えば、おそらく教科書的な、小田嶋の読みのほうが近いんだろう。でも、作者の意図を読み当てることは、それほど重要なことなんだろうか」、と。

おいおいおいおい……。半世紀以上センスがズレてるよ。「通常の読み方」を規定する「作者の言わんとすることは何か」式の読書、教訓を得んとする規範批評式の読書なんてのは、とうに過去のものでしょ。「作者の意図を読み当てること」と無関係なテクスト論だって遥か昔に確立されている。「誤読の自由」なんてあたりは割と人口に膾炙した言葉でしょ。今さら「独自の読み方」の何が新鮮か。
マァ、この記事の主題は「岡敦の「独自の読み方」をどう読んだか」で、そこは別に批判する気はない。毛頭ない。
ないんだけれど、「でもそれって、ただ単に「通常の読み方」とズレてるだけで、読書感想文に過ぎないよね?」としか思わない。
パーソナルな感動、パーソナルなモチベーション、その主体である岡敦というパーソンのことは、否定も批判もしない。
しかし、感動もモチベも「はぁ然様ですか」としか思わない。
あるいは私は岡敦の読み方に共感を覚えるかもしれない。だが、その共感もまた私のパーソナルなものでしかないのだ。
共感されない可能性を抱えて、ただ自分の感想を主張することにはなんの創造性も批評性も無い。
岡敦は大学で講義を受け持った際に、「哲学者や文学者の言葉の一部分を抜き出したプリントを学生たちに配って、それを叩き台に作文してもらった」という。「自分の解釈でもいいし、自分が思い出すことでもいいし、何でもいいから書いてみてくれ」と。

何を書いても間違いじゃない。だけど、書いたことについて、周りの連中に「オマエ、そんな読み方は間違っているよ」とか、「そんな話はあり得ないよ」とか言われても、絶対に引かない、絶対に撤回しない、そういう覚悟を持てることだけを書いてほしい、と言いました。

絶対に引かない? 絶対に撤回しない? そんな作文には一言これだ。
「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」
少女ファイト(1) (KCデラックス)
「俺はこう読んだんだ!」と、ただ頑迷に主張したって「お前がそう思うんならそうなんだろう」で終わりだ。なぜ引かないのか、なぜ撤回しないのか。その理由が説明できて初めて、感想が不特定多数にも有意義なものとなり、評論を展開する足がかりになる。
文学研究の世界には、「独自の読み方・新たな読み方」を、共感とは別の次元で他者と共有できるように論の筋道を立てる構造主義ポスト構造主義の手法が既にある。それが一般的でないことは承知しているし、高校までの国語教育が十年一日で変わっていないから、「作者が何を言っているか」式の「通常の読み方」が幅をきかせ続けるのも仕方あるまい。
だがそれにしたって、「独自の読み方」をただ闇雲に主張することを大事のように扱われると、「何を今さら」と思ってしまうのだ。
それと、毎度のことなんで怒る気もしないが、「批判的なコメントは非公開」ってのは情けないからおやめなさいな、NBO。こうしてTBつなげば同じなんだし、「独自の読み方」を称揚する記事なのに、送り手が予め決めた「通常の読み方」から外れるものを排除するなんて、悪い冗談ですぜ。

「山月記」入れ替わりトリック説は誰も否定できない

適当な例が無いとはいえ、自分のエントリを持ち出すのも我ながらどうかと思うが、「『山月記』の巧妙な入れ替わりトリック」(2009-04-13付)という例がある。「李徴は虎に変身などしていない」という珍説、だがこれは誰も否定できないのだ。
心情的に「変身してなきゃ話が成り立たないだろ」と言う人は多いだろう。作品成立の過程から「人虎伝が底本なのに変身してないわけないだろ」と言う人も多かろう。
「オマエ、そんな読み方は間違っているよ」とも「そんな話はあり得ないよ」とも言われよう。
だが私は何の覚悟も抜きにして、引きもしないし撤回もしない。
だって、「虎に変身した」というのは、ただ李徴がそう言ってるだけ。李徴の虎への変身を袁参は見ていないし、「神の視点」での変身の描写も無いのだから。もしも「いや、◯◯には◯◯と書かれているから、これは実際に変身したと捉えられる」と言えるなら、それは反論として有効だが、「変身してなきゃ話が成り立たない」ではそれこそ話にならない。
(ちなみに「虎と月」asin:4652086318は「変身していないけど虎になっていた」という解釈で、さすが柳広司と脱帽した。語り手の信頼性の問題は私とは別の人物に背負わせていて、「山月記」解釈としてはアンフェアではあるけれど)
もちろん、これは練り込み無しの一発ネタだから批評性はない。だが、現に書かれている(書かれていない)のだから、共感は抜きにして不特定多数が共有できる。だから、誰かがこれを足がかりにより深い解釈へと到達することもできよう(ていうか李徴≠虎説は他の誰かが唱えていてもおかしくない)。
これがX年前、私が国文学科でやったことの、ほんのわずかな残滓に過ぎない。
何の専門家でもない、ただ四年制の大学を出ただけの私でさえ、この程度に「独自の読み方」の提供のルールを心得ているというのに、いったい何を今さら「こう読んだ」なのかである。